言霊 [小学校編]
小学校の低学年の頃、何故かショボくれて帰ってきた。
私は何気に
「今日の学校どうだった?楽しかった?」
「・・・・・(';')」
「今日は友達と遊ばないの?」
「・・・うん。。。( 一一)」
「何かあったんだね。どうした?」
「・・・○○君に”ぶっ殺す”って言われた・・・」
○○君はよく遊んでいる子である(+o+)
落ち込んでいるチビ旦那を何とか言い聞かせ、友達が使うからと言って
そのような言葉は絶対人に使わないように念押しで教えた
私達の住むこの校区は、
生徒の半分は私立の中学校に進学するくらい教育熱心な親の多い所。
でも、○○君のお母さんが子供を叱るのに確か
”ぶっ殺すよ!”と言っているのを聞いたことがある・・・
さすがの私も”ヘッ?嘘~(・・;)”だった記憶があるのだ。
勿論、本気でないしろ、良い言葉でないし、大人でも使わない言葉。
ましてや我が子に・・・私は耳を疑った
私がお上品でないにしろ・・・チビ旦那は、そのような言葉を浴びせられたことがないのだ。
余程カルチャーシッョクだったんだろう。
父親であれ、母親であれ人前ではお上品を繕っても
子供は日頃親が使う言葉を自然に使うようになる。
親がやっていることや価値観が自然と身につく。
言霊という言葉があるが、下記参照してください(^^ゞ
(Wikipediaより)
言霊(ことだま)とは、
一般的には日本において言葉に宿ると信じられた霊的な力のこと。言魂とも書く。
日本は言魂の力によって幸せがもたらされる国「言霊の幸ふ国」とされた。
と、されていた時代もあったのに、、、悲しいことである。
今時の子供はとか、若者は・・・とよく耳にするが、
責任があるのは本当は大人側なのである。
そして、無責任なメディアも多い・・・
元気のない時こそ笑い、マイナス言葉は意識して使わない。
言霊を意識して言葉を発する、試してみる、信じてみても良いのではないのか?
そうそう、思い出した。
久しぶりに電車に乗った時のこと。
とてもローカルな線なので2両しかない。
本数も少ないので車両の中の空席は二人掛けの一人分が空いているか、
入り口近くの一人掛けの席しか空いていない。
私は入口近くの一人掛けの席に座り弟はつり革を持って立っていた。
私達が、一言二言話し出した時に
二人掛けに一人で座っていた40歳くらいのサラリーマン風の男性が
「こちらの席と変わりましょう、どうぞ^^」
「いえ、大丈夫ですよ。」
「どうぞ、どうぞ^^」
「そうですか?ありがとうございます^^」
結局、席を替わってもらったのだ。
「優しい人やなぁ~」
「ホント、ホント♪」
私達は電車を降りる時にもう一度、
「ありがとうございました^^」
「いえ、いえ^^」
単純な出来事であったが、見知らぬ人のさり気ない優しさが嬉しかった。
でも、良く考えると彼も一日とても良い人で過ごせるのだ。
結局は、お互いが幸せなのだ♪
「ありがとうございました。」
っと知らない人に言われて悪い気がする人はいない。
自分に少しの思いやりや優しさがあればいいのである。
そうかと思うと、歩道に突然、
飛び出してきた自転車にぶつかりそうになりヒヤリ!(**)
いい年のオジサンだったが”ゴメンナサイ”も”スミマセン”もなく
知らん顔して行ってしまった。
本当に何も思っていないのだろうか?
もう会うこともない私だから、どう思われようといいのか?
でも故意ではないとは言え、少なくともこのオジサンは私を不愉快にした。
本当に、あと少しでぶつかりそうになったのだ。
同じ一時的な出会いであれ、この二人は大違い。
確かに人間だから機嫌の良い日、良くない日があるにせよ
「ゴメンナサイ」
と
「アリガトウ」
は言わないと・・・・これは親子兄弟でも言えることで。
単純なことであるが、だから大切なのである。
>日本は言魂の力によって幸せがもたらされる国「言霊の幸ふ国」とされた。
今こそ、
「言霊の幸ふ国」に戻らなければいけない時期に来ているのではないのだろうか?
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(Wikipediaより)
<言霊>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
言霊(ことだま)とは、
一般的には日本において言葉に宿ると信じられた霊的な力のこと。言魂とも書く。
清音の言霊(ことたま)は、
森羅万象がそれによって成り立っているとされる五十音のコトタマの法則のこと。
その法則についての学問を言霊学という。
<概要>
声に出した言葉が現実の事象に対して何らかの影響を与えると信じられ、
良い言葉を発するとよいことが起こり、
不吉な言葉を発すると凶事がおこるとされた。
そのため、祝詞を奏上する時には絶対に誤読がないように注意された。
今日にも残る結婚式などでの忌み言葉も言霊の思想に基づくものである。
日本は言魂の力によって幸せがもたらされる国「言霊の幸ふ国」とされた。
『万葉集』(『萬葉集』)に
「志貴島の日本(やまと)の国は事靈の佑(さき)はふ國ぞ福(さき)くありとぞ」(「志貴嶋 倭國者 事霊之 所佐國叙 真福在与具」 - 柿本人麻呂 3254)
「…そらみつ大和の國は 皇神(すめかみ)の嚴くしき國
言靈の幸ふ國と語り繼ぎ言ひ繼がひけり…」
(「…虚見通 倭國者 皇神能 伊都久志吉國 言霊能 佐吉播布國等 加多利継
伊比都賀比計理…」 - 山上憶良 894)との歌がある。
これは、古代において「言」と「事」が同一の概念だったことによるものである。
漢字が導入された当初も言と事は区別せずに用いられており、
例えば事代主神が古事記では「言代主神」と書かれている箇所がある。
自分の意志をはっきりと声に出して言うことを「言挙げ」と言い、
それが自分の慢心によるものであった場合には悪い結果がもたらされると信じられた。
例えば古事記において倭建命が伊吹山に登ったとき山の神の化身に出合ったが、
倭建命はこれは神の使いだから帰りに退治しようと言挙げした。
それが命の慢心によるものであったため、命は神の祟りに逢い亡くなってしまった。
すなわち、言霊思想は、
万物に神が宿るとする単なるアニミズム的な思想というだけではなく、
心の存り様をも示すものであった。
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